「吉備の穴海」??
もしかすると私たちが今住んでいる場所は海だったかも…
今回は岡山平野の成り立ちの歴史について文献を元に紹介していきます。
干拓の歴史
岡山平野の南部一帯は、秀吉の高松城水攻めがあった天正10年(1582年)当時、瀬戸内海に浮かぶ児島(現在の児島半島)と本土との間に20余りの島々を点在させた美しい海でした。
この地域は「吉備の穴海」と呼ばれ、東に吉井川、西に高梁川、中央部に旭川と岡山県の三大河川が全てこの海に流入していました。
従って三大河川の強力な沖積作用で島々の間には干潟が発達し、近世干拓史のスタートを可能にする条件に恵まれていました。
1585年の宇喜多開墾に次いで行われた西阿知新田・東阿知新田の開発により、高梁川(東高梁川)左岸堤防が児島の西北端に達し、この時点(1618年)をもって児島半島が誕生しました。
「吉備の穴海」は半島に抱かれた静かな入海「児島湾」に変貌しましたが、二大河川(旭川・吉井川)の沖積作用により干拓の適地として新田開発が盛んでした。
江戸時代の寛永年間より慶応に至る約240年間をみると、児島湾沿岸で約6,800haもの土地が干拓により造成されています。
明治時代になると廃藩置県に伴い、家禄を奉還した旧士族たちの授産事業としての干拓による農地造成が契機となり、大阪の豪商「藤田伝三郎」によりこの地域での大規模干拓が開始されました。
湾内約7,000haのうち、約5,500haを8工区に分けて順次着工し、昭和16年までに第1~第5工区約2,970haが造成されました。
昭和14年に着工した第6区(約920ha)はその後の農地改革制度に伴う藤田農場解体により一時工事を中断していましたが、昭和23年農林省がこれを引き継ぎ、昭和29年に完成しました。
また第7区(約1,650ha)は昭和19年農地開発営団によって着工しましたが、昭和22年営団閉鎖に伴い農林省に引き継がれ、昭和38年に完成して現在に至っています。
「干拓から始まる 岡山平野南部地域の成り立ち」